当社には”ものづくり企業”として培ってきた精神があります。
『安全第一』という標語が、工場や工事現場など、危険が伴う作業場に掲げられているのをご存知だと思います。
1900年代はじめ、USスチールというアメリカのたった一つの製鉄会社からはじまり、全世界に広がった経営方針です。
実はその後に「品質第二、生産第三」という言葉が続き、本当は3つで1つの言葉なのです。
当時、生産性を重視するあまり、品質や労働環境がおろそかになるという事態が起こっていました。
そこで、当時社長であったエルバート・H・ゲーリーは経営方針を変更し、不幸な事故が起こらないように、まずは安全な職場環境を整えることを最優先としました。
次に、品質の高い商品を作ることに意識を向けました。その結果として、生産性は自ずと上がったのです。
ものづくりにおいて優先すべきことを彼は自身の経営によって証明しました。
その精神は現代にも受け継がれており、私どもの工場現場でも『安全第一』を何よりも優先するようにしています。
さて、本題に戻りますと、結果として、北海道のプラセンタ製造会社とともに製造技術を確立する事業は、道半ばで頓挫しました。
一番大きな理由は、安全性に確信がもてなかったからです。
開発途中の素材の可能性は感じていましたが、この品質では量産をすべきではないという判断をしました。
その頃、大手化粧品会社の元工場長だった方から、化粧品を調合する原材料として、当社の開発途中のプラセンタに目をつけていただきました。
そして、「定年間際の最後の仕事として、最高の化粧品をつくりたい」とのご連絡をいただいたのです。
その方の熱意に答える形で、プラセンタ製造を当社の一事業として復活させました。
中途半端に終わった膜分離事業も、ここで無駄にならずにすみました。
妥協できなかった、ものづくり企業としての矜持。
再出発の体制は、新しく迎えた開発担当の山川、そして研究担当の松木と私の3名でした。
これが、「佳秀工業株式会社ヘルスケア事業部」の始まりです。
私たちの最初の仕事は、前の会社の後始末。荷物の片付けや錆びついてしまった装置を掃除することからでした。
山川は元々医薬品メーカーの開発担当で、特に工場の体制をつくる仕事をしていました。
彼はその後、プラセンタの抽出技術を確立、安全性と効果を両立した原料を開発し、製造体制をゼロからつくりあげました。
松木は、京都大学や九州大学、九州工業大学との共同研究を担当し、当社独自のプロセス技術の確立に力を入れています。
世の中を見渡すと、プラセンタ原料を提供できるメーカーは限られています。
そのなかでも当社は、技術と製品の品質を立証するため、開発と並行して研究に力をいれてきました。
これは”ものづくり”の企業として、『安全第一』を最優先する意識からです。
そしてもう一つ同じように大切にしていることがあります。
「計測」です。
品質は、計測することでしか証明できませんし、正確に測るからこそ、開発もより高次元に進むのです。
「当社にしかできない面白い素材をつくること」、「それがお客様にとって有益であること」、この二つが今の私たちのプラセンタ開発を支えてきたポリシーです。
しかし、安全であっても本来の効果がなくなってしまうのは本末転倒です。
製品化の段階で、素材そのものの特性をできるだけ失わないよう、私たちの技術が存在すると考えています。
目の前の一つひとつ、一人ひとりに応え続けたい。
膜分離装置の会社をたたんだとき、地元で出資してくださったお一人から優しく問いかけられました。
「何か残ったものがありましたか?」と。
考えてみると、膜分離事業で得られた経験や再出発を一緒に始めた社員の他にもう一つあるとしたら、50年続く製造業で培ってきた『簡単にあきらめずにチャレンジするDNA』が残っていたのかもしれません。
原点に立ち戻り、一つひとつを形にする。そしてそれがお客様の役に立つもの、お悩みを解決できるものとなるように。私たちは日々取り組んでいます。
今振り返ると、この話は「成功談」にはほど遠く、人との出会いや出来事に影響を受け、時にはそれになぎ倒されそうになったという「経緯」です。
これから先も私たちは高い理想を掲げ、それを追求したいと考えています。
しかし、ただ上だけをみるのではなく、目の前の一つひとつ、一人ひとりに応え続けたい、これが次なるものを生み出そうとしている姿勢につながっています。